鹿野 力 (1935-2002)

鹿野力氏は、日本の社会・政治思想を専門とする英文季刊誌 The Japan Interpreter の主幹を長く務めました。学術テキストの英語訳の達人であったことは今もよく記憶されています。旺盛な読書家であり、日本社会の識見豊かな探究者でした。日本社会が海外にどう映っているかを念頭に、英語を読む人びとに日本を解説しつづけました。また後進の翻訳者の育成に生涯を捧げました。経歴の当初から「日本人が日本の思想を英語で伝える能力を増進させ、英語を母語とする学者・研究者が日本の思想を英語で伝達する能力を高める」(1967年頃)ことを志向していました。

1979年の “The Alchemist” (錬金術師)と題する英文エッセイのなかで、こう書いています。

「もっとも重要なことは……滑らかで、論理的で、練れた自然な英語を書く能力である。真に深い意味での翻訳者か否かは、原文が(著者の氏名を除いて)日本語であったことを微塵も感じさせずに英語に書き換え、しかも著者の言わんとするところを忠実に伝えられるか否かによって判断できる」

鹿野氏は“メンター”として数多くの学者や翻訳者を育て、チーム翻訳に揺るぎない信頼をおいていました。

「それでも、概念的理解力と語彙力に優れた日本人と(英語の)ネイティブ・スピーカーが組んだ有能なチームならば、いかなる日本語文献も翻訳できるとわたしは思う。一般に翻訳不可能と考えられている文献とて例外ではない。原文の日本語の語順、センテンス順、スタイル、語彙などを忠実に守りたい人たちとは、ここで一線を画することになるだろう。批判的な人から見れば、ある種の日本語の文章の英訳文は原文からあまりにかけ離れて、そこにいかなる邪悪な魔術が働いたかと訝しくさえなるかもしれない。しかしその訳文が技術的に質の高い仕事であるならば、さらなる精査によって、それこそ著者の言わんとするところを正確に言っていることがわかるだろう。要するに、著者が日本語で言っていたことを、英語で読む人たちにそのまま伝えているのである。とくに文学や詩の場合、スタイル、ニュアンス、原文の美しさなどがどうしても損なわれるが、それでもそれはその文章を翻訳しない理由には決してならない。

具体的にいえば、翻訳者の最初の仕事は、原文の概念と方向性を汲みとり、主要なメッセージと、その裏づけとなる要素を、さまざまなレベルの重要度を識別しながら把握することにある。次に、その理解を頭脳の錬金術を駆使して加工し、思考や事実を英語の論理における役割にしたがって概念的に再編成する。この段階では、日本語の段落の最後の一文を英語のパラグラフの冒頭にもっていったり、いくつかのセンテンスを組み変えて相互の関係性をより明確にしたり、説明的な要素や補助的な文章をもっとも効果的な場所に移動させたり、といった作業がしきりとくりかえされる。

….日本人には、知的領域において世界に提供すべきものーー西欧思想の模倣でも翻案でもないものーーが多くあるとわたしは信じている。そうでなければ、報われることの少ない翻訳という仕事をこれほど長く続けてはこなかっただろう。これまでは、日本の社会科学の思想家たちの生みだした知的資源は、現代、過去を問わず、世界的にほとんど利用されてこなかった。その原因の大半は翻訳にある。そもそも日本語が難しいこともあるが、西欧の思想こそ世界の思想であるという、根深い、ほとんど無意識なまでの観念のほうがもっと大きな障碍になってきたと思う。これが間違いであることはようやく気づかれるようになったが、日本の場合は、まず翻訳の質を高めて、日本語で書かれたものを他民族にむかってその言語で提供できるようにならなければ何も始まらない。その最初の一歩が英語なのである」

年譜

1935 (0歳)

4月13日、福井県小浜市に生まれる。
父清次郎は旧満鉄勤務。

1948 (13歳)

下鴨中学校(京都)入学。

1949 (14歳)

父清次郎死去。

1951 (16歳)

洛北高等学校 (旧京都一中) 入学。

1954 (19歳)

京都大学文学部哲学科入学。

1955 (20歳)

学生報道連盟(理事長・白石光夫)の英文雑誌編集に参加。

1956 (21歳)

学生報道連盟の三代目理事長に選出。
バンドンで開かれたバンドン学生会議に参加。
全米学生協会の奨学金でミシガン大学 (Ann Arbor) に留学。

1957 (22歳)

ミシガンからの帰途、ナイジェリアで開催された国際学生会議 に出席。
帰国後、京都と東京をしばしば往還。
学生報道連盟四代目理事長・井上正康氏および五代目理事長・西原正氏(現防衛大学校長)の顧問役を務める。

1961 (26歳)

東京のGotham Foundation Research Center (代表Gaston J. Sigur )でContemporary Japanese Political Abstracts of Selected Recent Works in Japanese の編集に携わる。

アジア財団の支援で日本社会思想研究所を創設し、英文雑誌 Journal of Social and Political Ideas in Japan (JSPIJ)を出版。創刊号は1963年春。

理事会: 松本三之助, 野田福雄, Okada Yuzuru, Oshima Yasumasa,関嘉彦. 編集部: Kano Tsutomu (executive secretary), リチャード・ミラー (editorial adviser and translator), 西原 正(translation and research assistant), バナード・キー (translation assistant).

1962 (27歳)

リチャード・ミラー, バナード・キー, ジョン・マケレブ がスタッフに加わる。

1964 (29歳)

JSPIJの印刷を大日本印刷から小宮山印刷工業に変える (以後、1980年の休刊まで印刷は小宮山印刷工業に依頼)。

1965 (30歳)

事務所を渋谷区代々木から渋谷区若木町11(のち渋谷区東4-12-24)に移す。
リチャード・ミラー帰国。ロバート・エプ 参加。

日本社会思想研究所(JSPIJ)を存続させるために内外で資金集めの運動を始める。

1968 (33歳)

日本国際交流センター (JCIE) 山本正氏と知りあい、翻訳の仕事で協力。Patricia Murray 参加。

1970 (35歳)

誌名をThe Japan Interpreter: A Journal of Social and Political Ideas に改め、出版を続行。

多くのフルブライト研究員がスタッフに加わる: John Boyle (1969–70), Harris I. Martin (70–71), V. Dixon Morris (71–72), Frank Baldwin (72–73), Robert J.J. Wargo (73–74), James Huffman (74–75), David O. Mills (75–76), Ronald P. Loftus (76–77), Neil Waters (77–78), Mark D. Ericson (78–79), Herbert P. Bix (79–80), Anne Walthall (81–82).

理事会 のメンバー構成 (Vol. 6, No. 3 現在): 西春彦, 蠟山政道, Nakayama Ichiro, Tobata Seiichi, 松本重治, Matsuda Tomoo, Noma Seiichi, Okita Saburo, 武田(長)清子, Saito Makoto, 永井道雄, 箕輪成男, Hagihara Nobutoshi, 鹿野 力。

1972 (37歳)

日本国際交流センター(代表・山本正)の支援正式に始まる (1972–1975 Rockefeller Brothers grant)。

北米での雑誌の流通はJapan Society, New Yorkから支援を受ける。

株式会社・社会科学翻訳センター設立。当時のスタッフにDavid Turner, Wayne Root, 田代泰子, Robert Rickettsがいる。J. Victor Koschmannも編集に参加。

1973 (38歳)

武智学入社。

1974 (39歳)

事務所を渋谷東4丁目から狛江市小足立(後の西野川)に移す。

1975 (40歳)

創価学会インターナショナルで、日蓮大聖人の翻訳プロジェクトに参加、編集・顧問。Seikyo Times顧問、1975–77。

1976 (41歳)

The Japan Interpreterが毎日新聞社国際出版文化賞を受賞。Lynne E. Riggs が入社。

1979 (44歳)

アジア財団日本代表 James Stewart が声をかけて財団内にTranslation Service Centerを設立。毎週4件の op-ed 記事を翻訳・編集、年間約200件が海外 (主にアメリカ)の新聞に掲載された。1980-1995の間に合計約3,000件。1991-1995の間、毎月 op-ed記事を集めたものをJapan Viewsとして発行。

1980 (45歳)

The Japan Interpreter が Vol. 13, No. 1で休刊

1981 (46歳)

事務所を世田谷区成城に移す。母親タカ死去。

1982 (47歳)

PHP研究所発行の英文誌 Entrepreneurship の 編集者 となる (1982–1985)。

1983 (48歳)

桑原武夫氏の論文集を翻訳、Japan and Western Civilization の題名で University of Tokyo Press から出版。
PHP研究所の月刊英文誌 PHP Intersect の編集顧問となる(1983-1996)。

1984 (49歳)

松下幸之助氏の経営哲学を翻訳、Not for Bread Alone の題名でPHP研究所から出版。

1985 (50歳)

松下幸之助氏の経営哲学に関するエッセイを英文月刊誌PHP Intersectにシリーズで翻訳 (1985-1989)、1989年にPHP研究所からAs I See It の題名で書籍として出版。

1988 (53歳)

成城から、狛江市岩戸北に設立したばかりの有限会社・人文社会科学翻訳センター(代表・武智学)内に一時的に事務所(本社は高井戸)を移す。

1993 (58歳)

国際交流基金の季刊誌 Japanese Book News の創刊に関わり、同誌の4号から11号まで顧問を務める。

1995 (60歳)

品川に事務所を開く。

1999 (64歳)

李登輝台湾総統著『台湾の主張』の英語版出版に関連してPHP研究所の江口克彦専務とともに台湾にて李総統と打ち合わせ。(英文版は The Road to Democracy: Taiwan’s Pursuit of Identityの題名でPHP研究所から出版。)

2002 (67歳)

7月5日、死去。