1935
4月13日、福井県小浜市に生まれる。
父清次郎は旧満鉄勤務。
1948
13才で京都へ。下鴨中学校入学。
1949
父清次郎死去(力は14歳)。
1951
京都の洛北高等学校(旧京都一中)入学。
1954
京都大学文学部哲学科入学。
1955
学生報道連盟(理事長・白石光夫)の英文雑誌編集に参加。
1956
学生報道連盟の三代目理事長になる。
Bandungで開かれたStudent Bandung Conferenceに参加。
Foreign Student Leadership Project (U.S. National Student Association-sponsored) 奨学金でUniversity of Michigan (Ann Arbor) に留学。
1957
Michigan からの帰途、ナイジェリアで開催されたInternational Student Conference に出席。
帰国後、京都と東京をしばしば往還。
学生報道連盟四代目理事長・井上正康氏および五代目理事長・西原正氏(現防衛大学校長)の顧問役をつとめる。
1961
東京のGotham Foundation Research Center(代表Gaston J. Sigur)でContemporary Japanese Political Abstracts of Selected Recent Works in Japanese の編集に携わる。
アジア財団 (Asia Foundation) の支援で日本社会思想研究所を創設し、英文雑誌Journal of Social and Political Ideas in Japan (JSPIJ)を出版。創刊号は1963年春。
Board of advisors: Matsumoto Sannosuke, Noda Fukuo, Okada Yuzuru, Oshima Yasumasa, Seki Yoshihiko. Editorial staff: Kano Tsutomu (executive secretary), Richard Miller (editorial adviser and translator), Nishihara Masashi (translation and research assistant), Bernard Key (translation assistant).
1962
Richard Miller, Bernard Key, John McCaleb がスタッフに加わる。
1964
JSPIJの印刷は大日本印刷から小宮山印刷工業にかわる(以後、1980年の休刊まで印刷は小宮山印刷工業)。
1965
事務所を渋谷区代々木から渋谷区若木町11(のち渋谷区東4-12-24)に移す。
Richard Miller帰国。Robert Epp 参加。
研究所(JSPIJ)を存続させるために内外で資金集めの運動を始める。
1968
日本国際交流センター (JCIE) 山本正氏と知りあい、翻訳の仕事で協力。Patricia Murray 参加 (translation and manuscripts editor until 1971; executive editor 1971-73; 1975-1980).
1970
誌名をThe Japan Interpreter: A Journal of Social and Political Ideas に改め、出版を続行。
多くのFulbright Fellows がスタッフに加わる: John Boyle (1969-70), Harris I. Martin (70-71), V. Dixon Morris (71-72), Frank Baldwin (72-73), Robert J.J. Wargo (73-74), James Huffman (74-75), David O. Mills (75-76), Ronald P. Loftus (76-77), Neil Waters (77-78), Mark D. Ericson (78-79), Herbert P. Bix (79-80), Anne Walthall (81-82).
Board of Directors のメンバー構成 (Vol. 6, No. 3現在): Nishi Haruhiko, Royama Masamichi, Nakayama Ichiro, Tobata Seiichi, Matsumoto Shigeharu, Matsuda Tomoo, Noma Seiichi, Okita Saburo, Kiyoko Takeda Cho, Saito Makoto, Nagai Michio, Minowa Shigeo, Hagihara Nobutoshi, Kano Tsutomu.
1972
日本国際交流センター(代表・山本正)の支援正式に始まる (1972-1975 Rockefeller Brothers grant)。
北米での雑誌の流通はJapan Society, New Yorkから支援をうける。
株式会社・社会科学翻訳センター設立。当時のスタッフにDavid Turner, Wayne Root, Tashiro Yasuko, Robert Rickettsがいる。J. Victor Koschmannも編集に参加。
1973
Takechi Manabu(武智学)入社。
1974
事務所を渋谷東4丁目から狛江市小足立 (後の西野川)に移す。
1975
創価学会インターナショナルで、日蓮大聖人の翻訳プロジェクトに参加、編集・顧問。Seikyo Times顧問、1975-77。
1976
The Japan Interpreterが毎日新聞社国際出版文化賞を受賞。Lynne E. Riggs が入社。
1979
アジア財団日本代表James Stewartが声をかけて財団内にTranslation Service Centerを設立。毎週4件のOp-Ed記事を翻訳・編集、年間約200件が海外(主にアメリカ)の新聞に掲載された。1980-1995の間に合計約3,000件。1991-1995の間、毎月 Op-Ed記事を集めたものをJapan Viewsとして発行。
1980
The Japan InterpreterがVol. 13, No. 1で休刊。
1981
事務所が世田谷区成城に移る。
母親タカ死去。
1982
PHP研究所発行の英文誌Entrepreneurshipのeditorとなる (1982-85)。
1983
桑原武夫氏の論文集を翻訳、Japan and Western Civilizationの題名でUniversity of Tokyo Pressから出版。
PHP研究所の月刊英文誌 PHP Intersect のEditorial Advisorとなる(1983-1996)。
1984
松下幸之助氏の経営哲学を翻訳、Not for Bread Aloneの題名でPHP研究所から出版。
1985
松下幸之助氏の経営哲学に関するエッセイを英文月刊誌PHP Intersectにシリーズで翻訳 (1985-1989)、1989年にPHP研究所からAs I See It の題名で書籍として出版。
1988
成城をでて、狛江市岩戸北に設立したばかりの有限会社・人文社会科学翻訳センター(代表・武智学)内に一時的に事務所(本社は高井戸)をおく。
1993
国際交流基金の季刊誌Japanese Book Newsの創刊に関わり、同誌の4号から11号までAdvisory Boardの委員となる。
1995
品川に事務所を開く。
1999
李登輝台湾総統著「台湾の主張」の英語版出版に関連してPHP研究所の江口克彦専務とともに台湾にて李総統とうちあわせ。(英文版は The Road to Democracy: Taiwan’s Pursuit of Identityの題名でPHP研究所から出版。)
2002
7月5日、肺癌で死去。