武智 學 (1950–2023)

人文・社会科学翻訳センター (Center for Intercultural Communication; CIC) の代表取締役を務めて参りました武智 學は、2023年1月21日に逝去いたしました。1972年に早稲田大学卒業後すぐに就業して以来50年、亡くなる6週間前までずっと仕事を続けました。

22歳で社会科学翻訳センター (Center for Social Science Communication; CSSC) に和英翻訳者として入社した武智は、編集長の鹿野力のもと、翻訳のドラフトを作成し、タイピングや校正作業にも地道な努力を重ねていきました。そして同僚のウェイン・ルート、パトリシア・マレーらにもまれながら仕事をするうちに、翻訳の世界に興味を募らせ、いつかは故郷愛媛で英語教師になるという計画を棄てて東京に定住、和英翻訳のプロになることを決意しました。

武智は日本史(とくに動乱の幕末・維新の時代)や仏教に関心が深く、また読書や翻訳上のリサーチを通じてしだいに各方面の知識を広めていきました。インターネットの普及以前は地元の図書館に足繁く通って文献に当たり、普及後はネットで丹念に調べ物をして翻訳の正確さを期していました。非英語母語者としての和英翻訳には苦労があったことでしょうが、同僚たちの巧みな編集を見るうちに、しだいに良い英語とはどういうものかというセンスを身につけていきました。

1990年、1976年以来の同僚リン・E・リッグスとともに、CSSCを発展継承する形でCICを設立しました。CICは、国際交流基金、Japan Quarterly(朝日新聞社)、PHP研究所、NHK放送文化研究所など、旧CSSCのクライアントの多くを受け継ぐと同時に、さらに学術論文、雑誌記事、研究報告、学術書、美術関係図録、宗教関係文書、歴史資料、その他様々な文献の翻訳・編集業務も請け負うようになりました。このように常に新しい分野に挑戦する姿勢は終生失いませんでした。

武智は、翻訳、編集、チェックだけでなく、CICのアウトプットのすべて目を通し、高い品質が確保されるよう労を惜しみませんでした。晩年の20年間は、他社の翻訳プロジェクトからの依頼で、和英翻訳のチェックも行っていました。その丁寧な校正は、翻訳者たちに感銘を与えました。たとえば、司馬遼太郎の『坂の上の雲』(Routledge,  2013-2014)、『竜馬がゆく』(Amazon Kindle 2018-2020; Amazon paperback, 2022) の翻訳者たちは、曖昧な主題や指示語の指示対象、難解な用語や言い回しについて武智を頼りにしていました。古文や明治期の文語体の文章に通じ、原文や史料からの引用文を正確に翻訳できる人物として、研究者の間でも評価され、信頼されるようになりました。

高校時代、応援団の団長をしていた武智は野球が好きで、外向的で陽気な青年でしたが、中年期には勉強熱心でもの静かな職業人へと変化していきました。翻訳に追われる日々のストレスを少し発散させるべく、ときどき高尾山や近郊のハイキングに出かけたり、仕事帰りに行きつけの飲み屋の暖簾をくぐったりしていたようです。蔭で支えてくれたのは奥様で、家庭のことはもちろん、ときにはCICの事務でも頼りにしていました。家族思いで、お子さんとお孫さんたちをとても大切にしていました。詩吟に才能があったようで、長年師匠に師事し、ついに免許「皆伝」を得しました。ひとりの友人は、ある月夜の東京で、その場にふさわしい詩を朗々と吟じる武智の幸せそうな顔を鮮やかに記憶しています。

武智は、仏教の教えに忠実であったためか、いつも控えめでもの静かでした。しかし、自分が正しいと思ったことは相手がどんなに口うるさい人であっても主張することをためらわず、それが通らないときは、自分が納得できる代替案に同意する潔さ、人当たりの良さをもっていました。

和英翻訳の世界では、日本人は、どんなに外国人を巧みに使いこなしても、また自身が翻訳者としてどんなに優秀で信頼されていても、影武者として扱われがちです。武智學もそういう一人でした。しかし最後まで勤勉で、一文一文にこだわりぬくその姿勢は、翻訳者の鑑と言っても過言ではありませんでした。また多くの人にとって大切な友人でもありました。私たちは、武智の目指した高い水準を維持し続けることが、彼の生涯を称える道だと思い、さらに努力を重ねようと思います。

年譜

1950

愛媛県生まれ。

1967 (17歳)

松山南高校卒業。

1972 (22歳)

早稲田大学教育学部卒業。(株)社会科学翻訳センター入社(Center for Social Science Communication; 英文誌The Japan Interpreterの編集・翻訳。その他の和文英訳および英訳チェックを担当)

1984–2001

朝日新聞社 英文季刊誌Japan Quarterly最終号まで毎号1〜2本の翻訳担当。

1988

松下幸之助『自叙伝』(Quest for Prosperity, PHP研究所) をはじめ、松下幸之助の著作の英訳の多くに翻訳・翻訳チェッカーとして参加。

1990 (40歳)

(株)社会科学翻訳センターの同僚のLynne E. Riggsと(有)人文社会科学翻訳センターを設立。

1992

伊部英男『開国』の英訳Japan Thrice Opened (New York: Praeger, 1992) をLynne E. Riggsと共訳)。

1995–2011

NHK放送文化研究所『放送学研究』の英文版Studies of Broadcasting. Nos. 31, 32, 34. (1995, 1996, 1999) 、NHK Broadcasting Studies. 第1号 (2002)から最終号の第9号 (2011)、および websiteに引き継がれた研究論文の翻訳・英訳チェック・編集を担当。

1996–1998

慈恵第三看護専門学校で英語(和英翻訳)非常勤講師。

2001–2007

月刊誌『外交フォーラム』の英文版季刊誌Vol.1, No. 2(Summer 2001)から最終号のVol. 7, No. 2 (Fall 2007) まで英訳チェック・翻訳・編集を担当。

2003

Metropolitan Museum of Art. Turning Point: Oribe and the Arts of Sixteenth-Century Japan. Edited by Miyeko Murase. (New York: Yale University Press) の 翻訳に参加。

2007 (53歳)

詩吟認許書「皆伝」(日本吟道学院)取得。

2009

『尼門跡寺院の世界』/A Hidden Heritage : Treasures of the Japanese Imperial Convents(「尼門跡寺院の世界」展; 東京芸術大学美術館, 2009)の翻訳・英訳チェックを担当。

2006–2022

Miho Museum展覧会図録の英訳(The Spirit of Japanese Glass (2006); Ceramics of Medieval Japan (2010); Omi: Spiritual Home of Kami and Hotoke (2011); Dogu, a Cosmos (2011); Negoro: Efflorescence of Medieval Japanese Lacquerware (2013); Shishi & Komainu: Mythical Beasts from Far Away (2014); Jakuchu and Buson (2015); Kazari (2016), 他多数)。

2013–2015

渋沢栄一伝記資料 (2013–2015); Shibusawa Eiichi Biographical Materials translation of content summaries of 57 volumes, managing team of 4 translators and editor. The summaries of 7 volumes are available online at https://www.shibusawa.or.jp/english/eiichi/denki_shiryo/toc.html.

2013–2014

司馬遼太郎著『坂の上の雲』(全8巻)の英訳プロジェクトに参加、英訳のチェックを担当(英語版 Clouds above the Hill [全4巻] はRoutledge社から2013-14年に出版)。

2014

瀧井一博『伊藤博文』(中公新書、2010)の英語版 Itō Hirobumi: Japan’s First Prime Minister and Father of the Meiji Constitution (Routledge).

2016 (66歳)

国際シンポジウム「翻訳の再評価: 学問を深める原動力」(国際日本文化研究所センター、京都)に参加。

2018

司馬遼太郎著『龍馬がゆく』(全8巻)の英訳のチェックを担当(英語版全4巻はKindle電子書籍 Ryoma: The Life of Sakamoto Ryoma として販売中)。 I-Houseの長銀国際ライブラリー叢書の英文出版の英訳チェック。その他、翻訳および英訳チェック多数。

2022

A Daimyo Heritage: Art Treasures of the Ii Family(彦根城博物館Hikone Castle Museum, 2022)のキャプションと解説の翻訳・チェック担当。

2023 (72歳)

11th Enku Grand Prize catalogue, Gifu Prefectural Museum of Art, 2023.